プラセンタの歴史

紀元前もの昔から着目されていた「プラセンタ

プラセンタ」の不思議な働きには紀元前もの昔から着目されていました。中国では「紫河車」という名で、秦の始皇帝の時代には不老長寿の薬として珍重していました。西洋においてはクレオパトラ、マリーアントワネットも若返りと美容目的でプラセンタを使用していたと言われています。
日本でも昆元丹として不老長寿の薬として使われてきました。近年では、第二次世界大戦末期に極度の食糧不足による妊産婦の母乳分泌不足と、次代を担う新生児の死亡率増加の対策として、京都大学の三林教授はプラセンタの不思議な作用に着目し、広範囲に適用するプラセンタの特殊栄養剤を研究開発しました。

日本のプラセンタ研究者

美容・美肌効果で有名なプラセンタ。その研究は旧ソ連のフィラートフ博士によって推進。日本では京都大学の三林隆吉教授と、久留米大学の稗田憲太郎教授によって広められました。
三林教授が研究を行っていた当時は、第二次世界大戦の最中であり「生めよ、ふやせよ」が国策となっている時代でした。しかし、食糧不足が続いたことで母親の栄養状態が悪く、母乳の出が悪くなるなど、新生児を育てるのにも影響が出ているような状況でした。そのような栄養状態が悪い状況にもかかわらず、胎児が母体の中で成長するスピードは一定。そこに目をつけ研究を行った結果、プラセンタの有効性を発見。プラセンタ製剤「ビタエックス」の開発につながりました。

日本におけるプラセンタの歴史

1943年に、文部省学術部が当時問題であった食糧不足を打開するため全国国立大学に高度栄養の研究と開発を指示。
そこで京都大学医学部の産婦人科教授、三林隆吉博士の脳裏にひらめいたのが、人の胎盤の活用でした。この胎盤に何らかの秘められた栄養があると研究を重ねた結果1945年、ついにプラセンタは高度な特殊栄養剤として学会で発表され、その栄養剤は「ビタエックス」と命名されました。
この日本初のプラセンタは三林博士認定の製薬会社が1955年に受け継ぎ、その当時より医薬品以外の栄養食品などの製造部門として創設されたのが、プラセンタのパイオニア、ホスミン栄養化学工業です。